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32件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1958-10-30 第30回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

七月に命令が来まして、カザック共和国カラカンダという炭鉱町へ行ったわけですが、その当時、もう四五年の八月以降、日本軍捕虜炭鉱に全部働いておりました。そのため、私ども地上勤務で、都市建設をやっておりました。そうして働いているうちに、四九年――そのころは、もう捕虜の帰国が逐次できておって、そのために、私たち炭鉱勤務に変っていったわけです。

平出盛正

1958-10-30 第30回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

平出参考人 私一人でカラカンダという町からウォロシロフという町の陸軍病院に転送されて、五〇年の九月にこの病院に入院して、五五年三月に退院したので、その間、今の病院で残された九人のうち八人の方が帰りましたから、それ以外に、私自身としてその町にはだれ一人――これは私が国籍をとって働くようになってから、いろいろなところを歩いて、日本人がいるかいないか調べて歩いたわけですが、結局最後に一人見つけたんです。

平出盛正

1956-10-29 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第21号

それから一九四七年の七月から四九年に至るまで、ウラルの北の方のコミ自治州のウフタという地区に送られまして、レンガ工場建設・道路の建設その他の作業に従事し、四九年の秋、カラカンダ付近のコウンラードというモリブデンを掘る鉱山に送られ、そこに約五年間おりました。

高橋晩成

1956-03-26 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第9号

その後新京に連れて行かれまして、ザバイカル軍事裁判によって死刑の宣告を受け、チタの死刑監房に六カ月と一年の獄中生活の後、カラカンダ方面一般ソ連囚人収容所に三カ所にわたり移動をし、昭和二十五年三月十七日、ハバロスフク日本人抑留所に集結され、一分所が最も長く、二分所、三分所と転属し、三月六日、夢にも忘れることのできなかった祖国日本に感激の舞鶴上陸をいたしたのであります。  

小笠長

1955-12-16 第23回国会 参議院 社会労働委員会 第6号

これもカラカンダ地区作業状況の中にあるごとく、ノルマがやはり大きいのであります。小さい日本人には露助の要求するところの同じノルマをやることはできません。これも非常に苦しみ、それからタイセットにおきましてもやはり同じく伐採並びにソ連軍事基地軍事用鉄道として目下、おそらくもう開通になったかと思いますが、バム鉄道、これの建設作業等に従事し、五四年の十月ハバロフスク地区に護送されました。

竹矢清吉

1955-12-15 第23回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号

と申しますのは、私は長い間カラカンダにおいてただ一人おったのでありまして、日本人に関することについて、それよりほかに申し上げることはありません。  それから最後に申し上げますが、ハバロフスクラーゲルのことは、佐々木氏並びに若山氏が相当詳しくお述べになりましたので、私におきましても同じことを繰り返す必要はないと思いますので、これをもって終りにいたしたいと思います。

逢坂和雄

1953-12-12 第19回国会 参議院 厚生委員会 第3号

話に聞きますとカラカンダ附近のラーゲルではそのほかに有料映画どもつて希望者を募つて好きなときに映画を注文してやるというような設備もあつたそうです。それから一月に一回ぐらい囚人が日曜の休みに音楽会を開く、或いは手品をやるというような状況でした。  それから新聞雑誌、これは大体ロシア語新聞雑誌ですが、これも図書室がありましてそこで読む、その程度です。

鈴木拡

1951-03-08 第10回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第6号

しかし最後にわれわれが知ることができるのは、ソビエト地区から私どもの肉親のところにもたらされました俘虜通信と、それから昨年の四月十七日と四月の二十二日に、ハバロフスクカラカンダ、ナホトカ——ウラジオを含みますが、この三つ地区から帰つて参りました合計二千八百四十余名の人たちによつてもたらされた情報だけであります。

津布久知男

1950-04-30 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第29号

昭和二十四年九月十五日、カラカンダ收容所九分所において、政治将校ニルマーラエフ上級中尉か質問に対する答えとして語つたことが同人によつて次のように通訳されたのであります。すなわちいつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかつている。諸君がここで良心的に労働し、真正の民主主義者になるとき、そのとき諸君は帰れるのである。

梨木作次郎

1950-04-28 第7回国会 参議院 本会議 第47号

死亡者確認だけでも、二名の女性を含み二千七百名に及んでおるのでありまして、又一方病人は九名と発表されたのでありますが、現在ナホトカに残された病人八名、カラカンダ地区二十一名、ホール病院八十五名が現存することが確認されておるのであります。この外に北千島よりカムチヤツカ方面に移送された者三千名以上あると言われ、樺太には三千五百名以上の残留しあることが証言されております。

岡元義人

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

カラカンダにおいて、このような事件があつたことは自分は知らなかつたのです。これは舞鶴において岡元委員長から自分に質問されたとき答えた通り、これはハバロフスクの第五分所に来て、このカンパが持たれたとき初めて自分は知つたわけであります。植松はカラカンダからハバロフスクに来たのは、これは三つ收容所に分れて配属されました。

宮地亮一

1950-04-27 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第28号

○井手(光)委員 問題はカラカンダ地区その他の地区において起きたことを調べておる。日本にあつたことを調べておるのではないのです。問題をはき違えては困る。タス通信の発表やあなたの気持を調べておるのではない。カラカンダ地区においてどういう要請が行われておつたかという具体的事実を調べておるわけでありますから、その具体的事実が事実であつたということはこれはやむを得ないであろう。

井手光治

1950-04-27 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第28号

われわれもカラカンダ地区におつたことがないのでありまするから、カラカンダ地区の具体的な事実によつて判断するより仕方がない。これは押問答である。あなたは否定しておるし、こちらは肯定しておるのであるから……。具体的な反証をあげるためには、カラカンダ地区でどういう事実が行われたかということを調べるよりこの問題の結論が出て来ない。

井手光治

1950-04-04 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第18号

日高証人 通訳菅季治という通訳——その当時菅はカラカンダ地区のたしか民主委員をやつておりまして、カラカンダ地区では工作委員言つてつたのでありますが、ほとんど九十九地区の特権は握つてつたと思つております。その菅季治氏が通訳を兼ねまして、政治部将校の話の内容をわれわれに伝えたような次第であります。

日高清

1950-04-04 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第18号

それから昭和十六年七月召集、勤務先牡丹江七連隊、当時の階級少尉、十八年中尉進級、二十年六月新京憲兵隊副官、二十年五月憲兵転科以後新京憲兵隊副官、二十年十一月ウズベツクスタン、アングレン到着、二十四年九月タジツクスタン、カラカンダ到着、二十五年十二月カラカンダ出発、二十五年二月九日舞鶴上陸、以上であります。

小笠原唯雄

1950-03-31 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第15号

なお、四月一日にウォロシーロフ地区引揚者繁澤富男君、イズベストコーワや收容所引揚者上村宗平君、四月三日にカラカンダ地区引揚者山口茂君、同じく久保田善蔵君、同じく小笠原唯雄君、同じく日高清君、同じく橋本忠義君も四月五日にカラカンダ地区引揚者菅季治君、同じく山森友太郎君、同じく峰田重吉君、同じく渡部武士君、同じく宇野喬夫君、四月六日にウォロシーロフ地区引揚者瀧澤瀧十君、カラカンダ地区引揚者小島清君、ハバロフスク

鍛冶良作

1950-03-29 第7回国会 参議院 本会議 第34号

以上のごとく、單にカラカンダ地区のみではなく、各地区においても、ほぼ同様の趣旨のいわゆる反動を帰さざるようにとの伝達がなされておることが考えられるのであります。  次にこれらの要請から、日本共産党ソ連地域との間には常に何らかの連絡がとられておると判断できるという点であります。これは次の事実によつて立証できるのであります。

岡元義人

1950-03-29 第7回国会 参議院 本会議 第34号

それはカラカンダ地区における通訳者の言葉として、日本共産党徳田書記長が、日本人の人々がよく準備された民主主義者として帰国するよう期待するということを言つておると、言つてつたと、ソ同盟将校語つたと伝えられた問題である。(「ややこしいな」と呼ぶ者あり)分らなければもう一度言つてもよろしい。もう一度言おう。

中野重治

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